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島田洋七(B&B)最高月収8000万円!!駆け落ち結婚?再婚?コンビ解散?相方は?選挙落選?吉本はクビ?

島田洋七(B&B)最高月収8000万円!!駆け落ち結婚?再婚?コンビ解散?相方は?選挙落選?吉本はクビ?

2016年7月18日(月)放送の、しくじり先生 俺みたいになるな!!に

島田洋七さんが出演されます。

「もみじまんじゅう」のギャグの人ですよね!

事務所移籍4回・コンビ解散6回・副業失敗8回・選挙落選

などなど・・・・・

たくさんのしくじりをしてしまったようです。

知らなかった・・・・。

コンビも6回も解散していたんですね!

という事で、調べてみたいと思います。

 

プロフィール

名前:島田 洋七(しまだ ようしち)
本名:徳永 昭広(とくなが あきひろ)
生年月日:1950年2月10日
出身:広島県広島市白島九軒町
所属:島田オフィス、オスカープロモーション所属
学校:広陵高校(野球特待生として推薦入学)広島工業大学土木工学科中退。

漫才コンビB&Bのひとり。

 

家族

家族は母・兄・洋七さんの3人。

父親は疎開していた佐賀から広島市への原子爆弾投下一週間後の広島に戻る。

家族を探して爆心地を歩き回り入市被爆した。

洋七さんが生まれた頃は病床にあり、歳のとき原爆症で亡くなる。

6歳の頃、佐賀の祖母に預けられる。

中学を卒業するまでの8年間の体験が『佐賀のがばいばあちゃん』として後に出版されベストセラーとなる。

 

結婚・離婚・再婚

19歳の頃、当時デパートに勤めていた奥さんと知り合う。

20歳で妻と東京へ駆け落ち。歌手を目指されていたそうです。

貯金も底をつき、高校の先輩に誘わて大阪へ。

大阪・東住吉区の4畳半に2人暮らしを始める。

なんば花月で笑福亭仁鶴の落語や、中田カウス・ボタンの漫才を観たのがきっかけで芸人になろうと決意。

野菜の配送や深夜の配管工のアルバイトをして食いつなぐ。

漫才の報酬は1ステージこなして300円。

うめだ花月の進行係をしていた時、当時吉本新喜劇の新入りで同学年の間寛平と仲良くなり、

程なく寛平が、新婚の洋七夫婦のアパートに転がり込み三人の共同生活が始まる。

食事はマヨネーズやケチャップ・・・・。

八百屋からもらった野菜の芯、パン屋の食パンの耳など・・・・。

そんな生活を一緒にしてきましたが、結婚して8年で離婚されたそうです。

そして、現在は、15歳年下の女性の方と再婚され、伊豆半島で暮らしてるそうです。

相手の方も再婚だったようです。

お嫁さんは、歯科医院を経営していて収入もあるようで、島田洋七さんは、

ご飯を作ったり、猫と遊んだりしているとか。

 

コンビ解散

島田一の介とコンビを組むが、互いに訛りが強く程なく解散。

団順一(萩原芳樹)と初代B&Bを結成、島田洋一名で漫才師としてデビュー。

萩原がトップホットシアターにてはな寛太・いま寛大の舞台を見て自信を喪失して失踪。

初代B&Bは消滅。

1973年5月、洋七は上方よしお(当時の芸名は上方真一)と二代目B&Bを結成。

レギュラー番組を持つ事にもなり、洋七はこれを機に東京進出を目指してよしおを誘う。

よしおが「怖い」と尻込む。また洋七がよしおに楽器を持てと強要し大ゲンカとなって二代目B&Bは解散。

島田洋八と三代目B&Bを結成。

1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年秋にB&Bを解散。

洋七は精神的な理由で6年間の休養生活に入り、表舞台から姿を消す。

「ケンケン・てるてる」の「ケンケン」こと国分健二と「スティング」を結成。

テレビ朝日「トゥナイト」のレギュラーになるも、すぐに吉本興業の新人タレントにその座を奪われる。

再びB&Bと改名するが、解散。

間寛平とも漫才コンビを組むがうまくいかず、1991年1991真夏大阪漫才格闘技

バトルロイヤルで8年ぶりに(3代目)B&Bを再結成させた。しかしまた解散。

1996年に洋八と再々結成して吉本興業に復帰。

島田洋八と結成したB&B時代には、

人気でピーク時で、週に実に26本、月84本、月100本以上もの番組に出演する殺人的

スケジュールだったそうです。

芸能界は俺一人でやってる気持ちになった程だそうです。

月給の最高の月は8000万円、4年間で32億円稼いだ事もあったとか!!!

しかし!!!人気が原因で漫才のネタを考える時間が無くなり飽きられてしまったとか。

難しいですね。

主な受賞歴は、
1975年 第4回NHK上方漫才コンテスト 優秀話術賞
1976年 第6回NHK上方漫才コンテスト 優秀努力賞
1977年 第6回上方お笑い大賞 銀賞
1978年 第13回上方漫才大賞 奨励賞
1980年 お笑いスター誕生!! 初代グランプリ
1980年 第8回日本放送演芸大賞 最優秀ホープ賞
1980年 第2回国立演芸場 花形新人演芸会新人賞 銀賞
1981年 第9回日本放送演芸大賞 漫才部門賞

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事務所移籍

デビュー当初は吉本所属。

1979年、東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍。

吉本は円満退社だったという情報あり。

1996年に洋八と再々結成して吉本興業に復帰

1999年、自叙伝『佐賀のがばいばあちゃん』が文庫本として販売。

吉本から、他のタレントへの手前もあるため、洋七さんに「1円でもいいから印税を入れてくれ」と

頼まれるが拒否し、関係が悪化。

2007年8月に吉本とは契約終了。

佐賀県に個人事務所『島田オフィス』を設立。

講演会中心で活動。

2012年8月1日付けでオスカープロモーションに移籍。

 

選挙落選

1995年第17回参議院議員通常選挙に当時居を置いた埼玉県選挙区から出馬。

洋八やぼんちおさむら昔の仲間が応援してくれたが、高速道路で演説したり他県で演説したりで落選。

このため新潟県で2票入ったという逸話が残る。

芸人引退を決意し、たけしに相談するが、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、引退を

思いとどまる。

 

副業失敗

最盛期には当時都内の一等地に下北沢など数軒しかなかった広島風お好み焼き店

“モミジハウス”を新宿・渋谷・原宿パレフランスビル地下1F、新宿・渋谷・などの

一等地に6店舗展開。

しかし、母親の要求に応じて全て閉店。

「春吉おでん」
「博多焼鳥・大阪名物串かつ やいてあげて」
福岡・中洲にすし店「博多寿し 島田」

をオープンされています。

副業を8回も失敗しているとありましたが、何の副業でしょう?

今回は、スペシャル!盛りだくさんの内容になっているのでしょうか?

 

しくじり先生が楽しみです。

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