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真田昌幸ってどんな人?主君は誰?最後はどうなる?息子は信繁(真田幸村)

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真田丸、昌幸のキャラがなかなか素敵です。

そして、前回の終わりでは、真田は、誰の下にも付かん。と言っていましたが、またまた変わる気がも・・・・。

どうなるのか気になります。

ということで、昌幸がどういう人物だったかを調べてみたいと思います。

人物を調べるのネタバレになる可能性があるので、知りたくない人は見ないで下さいね。

真田昌幸

真田昌幸は、1547年、武田信玄の下で活躍した真田幸隆(幸綱)の3男として生まれる。
母は河原隆正の妹。

弟の源次郎信尹と一緒に武田の人質に出されれ、昌幸は信玄の側近として、軍略・政略を学びながら才能を伸ばす。

昌幸は、武田一門の武藤家の名跡を継ぎ、武藤喜兵衛尉と名乗った。

三方ケ原の戦いに出陣し、信玄が死去した後は、後を継いだ武田勝頼に仕える。

この時のは、織田と徳川、武田と北条が同盟を結んでいた。

1575年(天正3年)に勝頼は家康に攻め取られた三河・長篠城を取り返すために、1万5千の兵を率いて出陣。

長篠の地で織田・徳川連合軍が迎えうった。

織田・徳川10万に対して武田は1万2千で戦ったとされている。

結果、この長篠合戦で二人の兄信綱・昌輝が戦死。昌幸は、真田家に戻って家督を嗣ぐ。

勝頼は、駿河で家康と戦闘のため転戦。

東上野、沼田攻略を昌幸に任せた。

昌幸は叔父の矢沢頼綱に沼田城攻撃を命じ、北条方の名胡桃城を調略によって落城させ、沼田城攻略を成功させた。

そして、天正9年(1581)に勝頼から新府城の築城奉行を命じられる。

このあたりからが、真田丸の始まりです。

この時期、勝頼は北条、徳川、織田と三方から圧力を受けていたので、新府城を築いて乗り切ろうと考えたようです。

勝頼が新府城に移り住んで二ヶ月後、木曽義昌が勝頼を背いて織田に寝返る。

これをきっかけに信長は嫡男の信忠、家康、氏政、金森長近らを甲斐・信濃へ侵攻を開始させる。
穴山梅雪が家康に寝返る。武田家中はどんどん離反していく。

昌幸は勝頼に、甲斐本国は周囲を敵に囲まれ危険だから、私の領地である上野吾妻の岩櫃城に避難して下さいという。近くの戸石城に息子の信幸、伯父の矢沢頼綱を入れ、沼田城には弟の信尹を入れて持ちこたえ、再起を図ろうと提案する。

だが、小山田信茂が「真田昌幸は信用できない。私の領地の岩殿城で再起を図りましょう」といい、結局、勝頼は、新府城に火をつけ、岩殿城へいくことにする。

軍議を開いた時には2万の軍勢が、甲斐へ戻った時には1千に・・・・。

最終的に、小山田信茂が裏切り、岩殿城の入城を拒否。その時には軍の数は、40人余りとなった。

結果、勝頼は天目山麓の田野で織田軍の滝川一益勢に囲まれ、自刃。

昌幸は、主君を失い、どうするか悩んだ結果、信長のにつくことになるが、その後、すぐに本能寺の変がおこる。

信長、信忠親子が明智光秀の軍勢に襲われ自刃。

そんな中、羽柴秀吉が、光秀を討伐する。

家康は甲斐へ、上杉景勝は信濃・北進地方へ、北条氏直は上野へ侵略に動く。

信長につくときに、沼田城は滝川一益に与えられていたが、滝川一益は北条氏直に敗れ、伊勢を目指して落ち延びる。

昌幸は北条方と沼田〜厩橋の経路の拠点を争う。

真田勢には不利な戦いの連続が続き、北条氏直の下に出頭し、北条の傘下に属する。

北条と上杉は川中島をめぐって対峙したが争いにはならず、その間に、家康は旧武田の家臣を取り入れながら領土を広げていく。

昌幸はその後、家康からの勧誘を受け帰属を受け入れる。

家康と約束した条件は、「上州長野一跡・甲州において二千貫文、諏訪ならびに当知行の事」だった。

昌幸は、滝川勢が去った沼田城を矢沢頼綱に奪還させる。

その後、北条と徳川が和睦し、沼田の地を北条に渡すように言われる家康。

秀吉との争いもあり、家康は背後の北条との関係が悪化すれば、身動きが取れなくなる状況。
北条の希望通り、家康は昌幸に沼田を渡すようにいう。

沼田を家康に渡せばそれに乗じ、家康に吸収される。沼田は自分たちの武功によって勝ち得た地なのに北条に渡すなどもってのほか!と拒否し、上杉景勝に帰属を申し出る。

景勝は、昌幸を信用出来なかったようだが、上杉家老の直江兼続が昌幸を味方にすれば、越後〜信濃のルートを

確保出来、徳川や北条が越後を侵略しにくくなると判断したこともあり、景勝は帰順を受け入れる。

条件として、昌幸は次男の信繁を人質として越後へ送り出す。

景勝は、信繁を気に入り、人質とは思っていないというようです。

家康は、昌幸の裏切りを怒り、真田一族を潰してしまえという。

そして、1585(天正13)年8月、家康は約7000の軍勢を上田に差し向けた。

家康は昌幸の事を「小勢力で何が出来る」と侮っていた。

8月2日、徳川軍が上田に着陣、真田軍は1000余りと城内に入れた平民1000を入れて2000で迎えうつ。

戸石城に長男の信幸、矢沢城には矢沢頼幸と上杉の援兵、昌幸自身は上田城に構えた。

昌幸は、城内で「高砂の舞」を踊ったそうです。

これを聞いた徳川の兵は、怒って一斉に城内へ。

昌幸はこの時、囲碁をしていて、相手を引きつけた後、「期は熟した。ものどもかかれ」と合図したそうです。

そして、二ノ丸の門を閉めて、行き場を失くした徳川軍に一斉射撃。

槍や石で攻撃。城壁の兵には丸太や槍、石で攻撃。

事前に平民を避難させ、柵をし、城下へ逃げる兵を逃げれないようにした。

その状況で、火矢を撃ち込む。

逃げた徳川兵は、信幸の伏兵が横から突撃。

徳川軍の死者1300余りに対して真田軍の死者は40人程で真田軍の大勝利!!

その戦いで、昌幸の武名は各地に広がり絶賛される。

家康の重臣石川数正が秀吉に寝返る。

昌幸は上杉の人質に出していた信繁を秀吉の下に人質として送りだす。

秀吉も、信繁を気に入ったそうです。

景勝が上洛した隙の話のようで、景勝は怒ったようで、秀吉に、信繁を返して欲しいといったという話も。

そして、秀吉の下に家康が上洛。昌幸は家康の組下大名となる。

秀吉は小田原攻めを終え、奥州仕置を行い天下統一を成す。

1598年、秀吉は病で死去。秀頼がつぐ。

翌年前田利家も死去。

秀吉の死去、天下を狙う家康。

上杉筆頭家老の直江兼続と石田三成は、そんな家康を挟み打ちにしようとする。

家康はその策にあえて乗り「上杉景勝が秀頼公に背こうとしている」と、上杉討伐の兵を大坂城に集める。

家康は豊臣普請大名軍5万5千、家康直轄軍3千を率いて東海道経由で会津遠征へ。

昌幸、信幸、信繁は、それぞれ居城のある上田、沼田に戻って軍勢を整え、家康の会津遠征軍に合流する為に(栃木県)小山を目指す。

その途中に、石田三成からで「主君秀頼公の下、西方の兵を結集させ、家康を討伐するのでお味方願いたい」と

密書が届く。

昌幸、信幸、信繁はどうするか考える。

信幸は、当然家康にという。家康公の家臣の本多忠勝の娘を貰い受けてる身だからというのも理由だったようです。

昌幸は、三成につくといいます。

そして、信繁も、三成につくと。秀吉公に恩義があり、大谷吉継公の娘を貰い受けてるというのが理由です。

ここで、昌幸と信繁は三成に、信幸は家康につくことにします。

東と西に別れても真田家は生き残るという考えもあったようです。

昌幸は、信幸がいない間に、沼田城をのっとろうと引き返す途中に、沼田城によるようです。

孫の顔がみたいという昌幸に、本多忠勝の娘が武装し、「敵味方に別れたので城内には入れさせるわけにはいかない」といったようです。

できた嫁だと、昌幸と信繁は、上田に戻る。

家康は小山につき、昌幸と信繁が三成についたことをしり、上杉攻めを中止し三成攻めをする事に。

秀忠は家康と合流するはずだったが、その前に上田城をつぶそうと、信幸を使者として上田城に派遣。

昌幸に降伏勧告の要求を伝える。

昌幸は頭を剃って城からでて「分かった。要求に応じよう。これだけの大軍では勝ち目がない。ただ城内を掃除をしてから渡したいから、2、3日の時間が欲しい」と信幸に伝える。

信幸は、昌幸があっさりと城を明け渡す訳がないと思いながらも一度帰るようです。

3日たっても音沙汰がないので、再度秀忠の使者が上田城にいく。

昌幸は「返事を伸ばしてたのは籠城の準備をしていたためだ。かかってこいと若造に伝えておけ!」と言う。

それを聞いた秀忠は、重臣の本多正信、榊原康政、大久保忠隣らから「上田を無視して進軍しよう」と言われるのも聞かず、城を攻め落とせと命令。

秀忠は上田城の周りの田の稲を苅田して上田城から真田軍を誘い出そうする。

昌幸は少数の兵を城からだし、その行為を妨害するふりをさせる。

徳川軍が攻めかかろうとする所を潜んでいた伏兵が襲い、さらに、徳川軍が城壁を登ると「撃て〜」と鉄砲で一斉射撃。

大手門にも徳川軍がなだれ込んでいる所を鉄砲や弓で攻撃。

信繁の部隊も門から出撃し、側面からは伏兵に突撃させた。

城下に施された仕掛けにはまる徳川軍。残った兵も、川の水を放流し、無数の死傷者をだした。

徳川軍の後続部隊も川の氾濫により身動きがとれず・・・・徳川軍の大惨敗。

徳川軍38000に対して真田軍3000(多数の農民兵含む)。

昌幸と民衆が一丸となっての二度目の勝利だった。

結局、秀忠軍はこれが元で関ヶ原の決戦に間に合わなかった。

昌幸は上機嫌だが、9月15日、関ヶ原の地で東西20万の兵が激突し、わずか一日で西軍が大惨敗したという知らせが届く。

わずか一日で決着がつくはずがない。4万近い軍勢を引きつけて決戦に間に合わせなくしたというのに…という昌幸。

家康は西軍に加担した昌幸、信繁を死罪にすると命じるが、信幸が、「助けて欲しい。信濃12郡の恩賜もいらない」と家康に懇願。

助ける訳にはいかないという家康に、信幸の舅の本多忠勝が助けをだし、命は助かる事になるが、昌幸、信繁は高野山麓の九度山に幽閉される。

「赦免されたら以前のように武名をとどろかせてやる」と気丈だった昌幸は次第に病気がちになり、亡くなる。
亡くなる前に、信繁に「わしより優れた能力をもっている。それは間違いない。自信を持て。」というようです。

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いや、やっぱり、これからのドラマの中でも主君をかえ、力をつけていくようですね。

裏切り方(考えを変える)もなかなかのものです。

そして、この時代だからでしょうが、人質。

信繁もいろいろと転々としているんですね。

真田丸の配役

真田丸では、昌幸を草刈正雄が演じています。

名前:草刈 正雄(くさかり まさお)
生年月日:1952年9月5日
出身:福岡県小倉市(現在の北九州市)
身長:185cm
血液型:O型
所属:バービィオフィス
学校:東京都立青山高等学校定時制卒業、放送大学教養学部修了

父親はアメリカ軍の兵士であったが、日本人の母親が草刈を妊娠していた最中、朝鮮戦争で戦死。

中学生時代は貧しい家計を少しでも楽にしようと小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校した。

1970年にCMディレクター・杉山登志に起用される形で資生堂専属モデルとなり、MG5のCMで団次郎の弟分としてデビューし売れっ子モデルとなる

大河ドラマといえば、草刈正雄?ってなぐらい出演されています。

風と雲と虹と(1976年) – 鹿島玄明
花の乱(1994年) – 日野勝光
毛利元就(1997年) – 桂広澄
義経(2005年) – 平知康
篤姫(2008年) – 阿部正弘
江〜姫たちの戦国〜(2011年) – 本多正信
真田丸(2016年) – 真田昌幸
真田丸、ストーリーを面白くしてくれる昌幸のキャラに期待です。

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