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大橋鎭子 小橋常子のモデルはどんな人?結婚していない理由は?11歳で喪主?

大橋鎭子 小橋常子のモデルはどんな人?結婚していない理由は?11歳で喪主?

2016年4月4日(月)より放送開始の「とと姉ちゃん」

主演は、高畑充希さんです。

その他には、唐沢寿明さん、相楽樹さん、杉咲花さん、西島秀俊さん、木村多江さん、及川光博さん、向井理さん、川栄李奈さん、坂口健太郎さんなどが出演されます。

そして、今回のとと姉ちゃんは、戦後日本で一大ムーブメントとなった雑誌「暮しの手帖」。

その創刊者である大橋鎭子、花森安治をモデルとしたフィクションドラマだそうです。

脚本は西田征史。主題歌を宇多田ヒカルが担当。

ということで、高畑さん演じる小橋常子(こはし つねこ)のモチーフとなった、大橋鎭子さんについて調べて

みたいと思います。

ネタバレにもなりますので、みたくない方は見ないでくださいね!!

大橋鎭子さんはどんな人?

プロフィール
名前:大橋 鎭子(おおはし しずこ)
生年月日:1920年〈大正9年〉3月10日 – 2013年3月23日)
出身:東京都
学歴:東京府立第六高等女学校(現:東京都立三田高等学校) 1937年卒

日本女子大学 1940年入学・1年で中退

日本の編集者、エッセイスト。

暮しの手帖社社主・元社長で同社の雑誌『暮しの手帖』を創刊した。

妹の大橋芳子も同社創業メンバーの一人で、エッセイスト。

父親は、大橋武雄、母親は大橋久子(宮原久子)

父の大橋武雄は、岐阜県養老郡時村(現在の岐阜県大垣市)生まれ。

実家は、苗字帯刀が許された名家だったそうです。

3人兄弟の次男だった武雄は、東京で材木商を営む親戚の養子になり、一人息子として育てられる。

北海道の大学にいった武雄は、そこで母となる久子と知り合います。

武雄は、大学卒業後に東京に戻り、大正8年4月に日本製麻勤務に入社。

その翌月の5月に、武雄と久子は結婚。

大正9年(1920年)3月10日に大橋 鎭子が誕生。

翌年、鎭子が1歳の時に、小沢の工場長となる父の転勤で北海道に移住。

その後、武雄は、茅野にうつり、茅野の工場長となる。次女大橋晴子が生まれる。

武雄は風邪が回復せず、北海道でも気候のよい、虻田の工場長として赴任。

そこで、三女大橋芳子が生まれる。

3人の子供に恵まれ、幸せに暮らしていた大橋一家。父親が肺結核と診断され、鎌倉の病院で療養する。

父は、仕事を辞めることとなり、5年間は療養所を求めて、伊東、鎌倉、大森などを転々とし、家族で看病に明け暮れる。

母親の久子は、良い病院、良い学校がある場所が良いと、最終的には、大井鹿島町にうつる。

しかし、昭和5年、5歳の時に父親がなくなります。

父である、武雄は、鎭子さんに、お母さんを助けて、晴子、芳子の面倒をみるようにといったようです。

そんな父の考えがあってのことか、11歳だった大橋 鎭子が喪主を務めたそうです。

大橋 鎭子さんはこの出来事で度胸がついたと話されています。

葬儀にきた人たちたちに、お弁当を渡したが、父が肺結核でなくなったこともあり、感染をおそれて誰も手をつけず、次の日ゴミ箱に捨てられているお弁当をみて悲しくなったとか。

その後、大橋家は、久子、鎭子、晴子、芳子の4人家族に。

久子の父である、宮原満吉さんが支援してくれたこと、また久子も持っていた着物などを売り生活をしたそうです。

そんな中、鎭子は、日本女子大学付属、文化学園、東京府立第六高等女学校の3校を受ける。

日本女子大学付属は、試験、面接はクリアしたものの、最後のくじで外れる。

その他の2校は合格。母親の勧めで、東京府立第六高等女学校に入学することに決める。

東京府立第六高等女学校での生活は、健康の要は歩くことという考えがあり、たくさん歩いたようです。

久子が歯が悪く通っていた病院の先生に、自分たちで練り歯磨きを作るように言われ、作る。

それで母の歯槽膿漏がなおる。友人母も使ったところ治ったそうです。

これを作って売ればどうか?と同級生の親からの助言があり、久子に相談。

やってみようと、材木売り場の権利をうったり、満吉も貸家をうったりで資金を作り、練り歯磨きを製造。

チューブが破裂する事件があり、瀬戸物の容器にいれるなど苦労して作った歯磨き。

ただ、売れずに失敗に終わります。

その頃、鎭子は14歳でした。

東京府立第六高等女学校(現東京都立三田高等学校)を1937年に卒業。

祖父の満吉が、亡くなります。

父の従兄弟の黒田正夫の紹介により、面接をうけ、日本興業銀行の調査課に配属される。

3年間勤務する。

仕事内容は、複数の新聞をよみ、重要な記事を切り抜き、重役に届けるという仕事だったそうです。

その後、日本女子大学に入学するが1年で、父と同じ肺結核となり、学業を断念し、中退。

静養し、完治後は、田所太郎により、創刊されたばかりの日本読書新聞に入社。

この頃は、日本は第二次政界大戦の真っ只中でした。

自分のみたい、知りたいことを本にすると、戦争で学校にいけない女性に喜んでもらえると考え、出版を続ける。

20年4月に日本読書新聞は休刊となる。

その後、20年8月に再開。

その第1号は、雪国や伊豆の踊り子で有名な川端康成に原稿を書いてもらうことが決まる。

原稿をもらうという大役に任命された鎭子。

川端康成の自宅を訪ねると、あっさり書いてあげるから5日後に取りに来るように言われる。

大喜びだった鎭子だが、5日後に取りに行くと、まだできていないので、5日後に取りに来るように言われる。

それが繰り返され、今日行って同じことを言われたもう書いてもらえないかもと思う。

家にいくとやはりまだできていないと言われる。

思わず涙が出る鎭子。その様子をみて、書いてあげると机の前に鎭子を座らせ、2時間ぐらいで原稿を書き上げてくれる。

嬉しくて急いで原稿を持ち帰る鎭子。

途中、お茶の水の駅で片方の鼻緒が切れたが、早く原稿をみせたくて、片方の下駄を手にもち走りだす。

編集長である田所太郎に苦労して育ててくれた母に恩返しをしたいので、雑誌を出版したいと話す。

編集長から、花森安治に相談することを熱心にすすめられ、花森安治に出会う。

花森安治は、戦中は、大政翼賛会の宣伝マン。

戦後は、大政翼賛会が解散し、日本読売新聞の復刊を手伝い、イラストや挿絵などを描いていた。

編集長の田所太郎と花森安治は高校、大学の同級生。

花森安治の才能をしっていたので、鎭子にすすめたようです。

鎭子は、花森安治に、相談。

花森安治は、自分は親孝行ができなかったので、君のお母さんの孝行を手伝うと約束してくれる。

そして、どんな雑誌が作りたいか?僕は二度と戦争が起きないようにするための雑誌を作りたいと言われ、その通りにするという。

さらに、花森安治は結婚について尋ねる。

雑誌のことで頭がいっぱいなので結婚はしないという鎭子。

誓うか?という花森安治にはいと誓う鎭子。

その後、何度も協議を重ね、「女性に役立つ雑誌」「暮らしが良くなる雑誌」「衣食住を取り上げた雑誌」に方向を固める。

昭和20年、25歳の頃、母久子、晴子、芳子に雑誌を出版することを話し、協力をえる。

日本読売新聞を退職し、雑誌出版へと動き出す。

昭和21年、花森、鎭子・晴子・芳子の三姉妹で衣装研究所(現・暮しの手帖社)を銀座で設立して社長となる。

雑誌『スタイルブック』を創刊。

花森編集長の元で『美しい暮しの手帖』(後の『暮しの手帖』)の創刊に参加。

昭和26年、社名を「暮しの手帖社」に変える。

平成25年3月23日、93歳で死去。

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配役

小橋常子(大橋鎭子さんをモチーフ)役

名前:高畑 充希(たかはた みつき)
ニックネーム:みつき
生年月日:1991年12月14日
出身:大阪府東大阪市
身長 :158cm
血液型:AB型
所属:ホリプロ

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